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SPANK HAPPY(スパンクハッピー)は1994年に、僕と原緑(当時、原みどり)さん、 河野伸さんの3人で結成され、東芝EMIから2枚のアルバムと4枚のシングルを発表した ユニットで、バンドのネーミングは僕が担当しましたが、当時はリーダー不在で、ソ ングライトに関しても総てノー・クレジット。楽曲毎にソングライトチームのセルフ・ プロデュース。という徹底したユニット性を打ち出していたので「僕が主宰するバン ド」とは言えませんし、以下ご紹介する「第二期」のスパンクハッピーとは音楽性が 著しく違っているので、ここでは僕が主宰に確定した、岩澤瞳さん(04年に引退)と 僕との「第二期」の作品を扱っています。
第一期のスパンクハッピーは97年に河野さんが脱退し、98年に原さんが脱退した後、 僕一人で継続することにし、ヴォーカリストのオーディションを行いまして、当時は 家電メーカーに務めるOLさんだった(つまり完全な素人の)岩澤瞳さんに決定し、99 年には渋谷クラブ・クアトロでデビューライブを行っています。この「第二期(僕の 主宰としては第一期)スパンクハッピー」に関しては「クイックジャパン」の特集号 と、やはり「スペインの宇宙食」の「展望レストラン三峰」という章に詳しいので、 そちらをお読み頂くと、結成〜初期活動期のムードは追体験できると思われます。
コンテンツ「DCPRG」をご覧頂ければお解りの通り、つまり僕は99年に、対称的な 二つのバンドを作ったわけです。腕利きの男ばかりの、14人編成の、生演奏のハード・ ダンス・バンド。と、素人の女性と二人だけの、打ち込み(最終的にはカラオケを経 由して、リップシンク=口パクのパフォーマンス。に到達しました)のソフト・ダン ス・ユニット(フォーマルにドレスアップして、ハイヒールのままの男女ペアダンス を志向していました)。という事です。こうした双子座性は、僕に終生つきまとう物 でしょう。
シングル3枚(企画もの1枚含む)とアルバム2枚をリリースしたのですが、ポップ スとしてはまったく売れず(これも双子座のシンメトリーかも知れません。DCPRGや ソロ作品は「ジャズとしてはかなり売れた」ので)、とはいえ優雅に楽しくやってい たのですが、前述の通り、04年に岩澤さんが体調を崩して引退し、再び一人だけになっ た僕は、二度目のヴォーカリスト・オーディションを行うと同時に、上海まで飛んで、上海で2番目の富豪である華僑一族の令嬢、ドミニク・ツァイさんをスカウトし「第 三期」としてスタートを切ったのです。
ところが、バンコクでのライブの直前に逃げられてしまい(この、事実は小説より も奇なりとしか言いようがない顛末については、掌編小説「花見と闘犬」として「サ イコロジカル・ボディ・ブルース解凍」に書いておりますし、事実のレポートとして は前サイト「フォンテーヌ/デギュスタシオン」日記のアーカイブの中にあります。(今は閲覧できませんが)。因みに、ドミニクさんは昨年、台湾でソロ・デビューしています)、第三期はライ ブ1回とデモ・テープだけを遺して終了、ヴォーカル不定のまま(口パクのパフォー マンスなので、基本的には人形とでもライブが出来るのです)「第四期」を迎え、現 在は活動休憩中ですが、解散はしていません。来年あたりに再始動できたら良いなあ。 と思っています。
幼児性のエレガンとデガダン(SMやインセスト・タブーをテーマに置いている訳な ので)、屈折した80年代リヴァイバリズムを標榜する音楽性は、DCPRGの灼熱殺菌的 なヘルシーさと対極にあり、あくまでドメスティックという範囲に於いては、このバ ンドの方がDCPRGより社会性の強い(つまり病的な)音楽だったと思っています。こ れはあくまで偶然ですけれども、このバンドの活動期には潜在していた様々な物が、 このバンドが活動を停止してから定着文化になった感もあります。
僕はヘソ曲がりであると同時に律儀なので、他人のテリトリーを犯さない。どこか で手に入る物はわざわざ作らない。という慎ましやかな美徳を旨としておりますので、 次に活動再開するときがあったら、またちょっと違ったイメージによって駆動する様 な予感がしています。とまあ、それはまだ先の話で、勿論なにも決まっていません。
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